夏が過ぎたというのに、まだまだ気温は高く、今日も美術室はじっとりと暑かった。 若干季節外れにも思える扇風機がこちらに風を送り出し、その風に乗ってぱたぱたと資料用の写真がはためく。 窓から入ってくるぬるい風にうんざりして、私は美術部員が独占していた扇風機の風をひとつ、横取りした。 他の美術部員たちからのブーイングは気にしない。だって扇風機はひとつではなくふたつあるし。

 扇風機の正面を陣取り、私は背中に風を当てた。風はお世辞にも涼しいとは言えなくて、私はうえ、と妙な声を出す。 太い三つ編みに赤い縁の眼鏡をかけた部長が、そんな私の頭を細い筆でぽかんと叩く。 ちょっとだけ痛い。本当にちょっとだけ。

「そこ、陣取らないで。ただでさえ邪魔なのに、もっと邪魔」
「どくぜつー……」

 私の力ない声を聞いて、部長――ヨリは赤い眼鏡をかけ直してふんと鼻を鳴らす。 私は唇を尖らせ、自分の制服の襟を引っ張った。整汗剤のにおいが一瞬鼻腔をかすめる。

「ほらほら、どいたどいた」

 しっしっと手を振られ、私はしぶしぶ扇風機の前から退散した。 上靴を足にひっかけ、ぽてぽてとヨリの作品のところまで歩く。キャンパスを覗き込むと、 そこにはとても幻想的な世界が広がっていた。

 割れた卵に、その中から飛び出してくる羽根の生えた天使。なんとなくキリスト教を思わせるのは、 神秘的な絵の雰囲気と、天使のせいだろう。ヨリは私の隣に来て、私と同じように自分の絵を覗き込んだ。

「ちょっとここの色が変なんだよね」

 ぴっとヨリが指差した場所は、私が見てもどこが変なのか分からない。

「そう?」

 私が素直にそう言って首を傾げると、ヨリはふうとわざとらしくため息をつき、

「うん、まあ、こういう微妙な違いって、本人しか分からないんだよね」
「……かたじけない」
「いえいえ」

 ヨリは椅子を引き、絵の前に座る。筆に水をつけ、絵の具を乗せた。 ヨリが線を引くたび、キャンパスの世界が広がっていく。私はそれをただ見つめていた。

「おもしろい?」

 ヨリが聞く。

「んー、完成品見てる方が好きかな」
「……じゃあなんで見てるの」

 邪魔だよ、とヨリに追い払われ、私は美術室をさまようことになってしまった。


太陽の手 01.


 秋の気配を知らせる蝉の声が鳴り響くのに、夏はまだ去ろうとしていなかった。 去ったのは夏休みという名の天国だけだ。なんてこの世は無情なんだろう。

 二学期が始まったばかりの学校が終わり、校舎内にいるのは部活動生と事情があって居残っている、 もしくはなんとなく居残っている物好きな生徒、そして教師だけだった。

 熱気が僅かに冷えはじめ、橙色に染まった校舎が濃い影を落とす。 私はこの時間を、さして用のない美術室で過ごすのが何より好きだった。

 誰が描いたかも知らない、有名な芸術家が見たら鼻で笑いそうな絵だとか、何々賞を取った誰々さんの絵だとか、 そういうありふれたものたちをただ眺める。

 粘土や木材、絵の具やその他もろもろの、美術室独特のにおいに包まれながらふと飾られている絵たちから目をそらせば、 代わりに無言で作業に没頭する美術部員たちの姿が目に飛び込んでくる。

 一番隅に椅子を寄せ、黙々と筆を走らせるヨリの絵は、遠目から見ても一番精密だ。 私は美術室内をぐるりと見渡し、ヨリとは反対側の隅に押しやられた古い絵たちを物色しはじめた。

 ひとつをとりだすたびに大きな音が鳴り、埃が舞う。

「うるさいよー」

 ヨリから声をかけられる。私はへらりと笑ってごめんと詫びた。 と、綺麗な色が覗いていることに気がつき、古い絵たちをかきわけて、その一枚を引っ張り出す。 埃が舞い、私は咳をした。抱くようにしてそっと絵を取り出し、近くの壁に立てかける。

 真っ白に降り積もった埃を手で軽く払い、描かれている物を確かめる。

「おお……」

 つい、感嘆の声が漏れた。

 中心に腰を据えているのは優しい顔の少女。少女は薄い赤色のチューリップを胸に抱き、 平面的な白のワンピースに身を包んでいた。淡い黄色で塗りつぶされた背景の下から、薄く窓や花畑の下書きが見えている。 肌の部分もほとんど白に近く、立体感はなかった。

 けれど、どこか温かく優しいその絵は、おそらく途中であるだろうに、私の目を奪う。

「……きれい……」

 うっとりと呟く。完成していない絵を綺麗だと思うなんて初めてで、とても不思議だった。

「――そうか?」

 ふと、頭の奥から知らない声が響く。 驚いて顔を上げ、声の主を探した。絵のほうからくっくと楽しげな笑い声が聞こえる。 私は絵のほうを見た。

 時期外れの冬服に身を包み、茶色の短髪を風に遊ばせ――

「……お?」

 「彼」は、私と視線が合ったことに目を丸くした。 そして、にこりと柔らかく微笑む。笑顔に、橙色の光が透けた。舞う白い埃がひどく幻想的に見えて、 私は目をこすった。

「何お前、俺が見えてるの?」

 描きかけの絵画の上に腰をおろし、壁に体をめり込ませ、 透けた手足をぶらぶら揺らしながら、「彼」は無邪気に微笑む。

「…………っ!?」

 私は慌てて後ずさり、勢い余ってあまり話したことのない美術部員の絵の具をひっくり返した。 がしゃあんという凄まじい音の後、ああっという美術部員の悲鳴が上がる。 私は絵の具を肩にかぶり、その場に腰を抜かして、ぶるぶると体を震わせた。

 震える指を「彼」に向け、声の出ない口を情けなく開く。

「おおっ、すっげえ! 俺が見える奴なんて初めてだ!」

 私の様子とは反対に、「彼」は本当に楽しそうに体を揺らした。

「……なっ、な……」

 私は震えながら、喉に詰まる声を必死に吐き出す。

「ゆ、幽れ……」
「俺の名前は坂木なおや! お前は?」

 震える私が我と場所を忘れて絶叫するのは三秒後。

 ――……それが、私と「彼」、坂木なおやとの出会いだった。

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