「俺の名前は坂木なおや! おまえは?」
「彼」がそういった三秒後、私は叫び声をあげた。
太陽の手 02.
「彼」――坂木くん、は、まず最初に壁から体を出し、絵画から立ち上がった。
坂木くんは紺色のブレザーの皺を軽く伸ばし、にこりと笑う。
坂木くんの奥にある絵画や壁が、ぼやけて見えていた。
――透けている。
私はシャツを絵の具で思い切り汚したことも、美術室で大声で叫んだことも、
あろうことか一生懸命作品を作っていた部員の絵の具をひっくり返したことも忘れて、
体を震わせながら坂木くんを凝視していた。
坂木くんは一度天井に向かって背伸びをし、肩をまわして軽く体をほぐした。
ちらちらと舞う埃は、坂木くんの体をすり抜け床に落ちていく。
「はあー、ったく、誰も俺に気がつかねえからさあ、まじ暇で死ぬかと思った。まあもう死んでるんだけどな!」
そう言って坂木くんは一人で楽しそうに肩を揺らした。
私は何も言わず、いや何も言えず、がたがたと震えている。
「あれ、もしかして初めて見るの、俺みたいなやつ」
坂木くんは私に話しかける。
「……それとも、俺が勝手に俺の姿が見えているんだって勘違いしているだけ?」
坂木くんの声が、頭の中で反響する。
私の頭の中で、ぷちん、と何かが弾けた。
「きゃああああああっ!」
私は急に叫び声をあげ、近くにあった絵の具のチューブを坂木くんに向かって投げた。
坂木くんは驚いて、さっきまで腰かけていたあの少女の絵を庇う。けれどその行為に意味はなく、
投げたチューブが額縁に当たった。坂木くんはあきれた顔をして私を見る。
私は立ちあがり、真っ青な顔で息を切らせていた。
「おい、ちょっと待て落ち着け……」
「うわあああああくるなあっ」
坂木くんが一歩近づくごとに一チューブ。
あまりにも私がチューブを投げつけるものだから、坂木くんは辟易する。
坂木くんは一度止まり、一瞬困った顔を見せた後、決心したように頷いて、ふっと姿を消した。
「……あ」
はあ、と肩で息をつき、私は坂木くんがいなくなったことに安堵する。
――けれどそれは一瞬のことで、ひやりとした嫌な感触の「何か」が、私の肩に乗った。
「よっ」
「うわっ」
肩越しに顔。驚いた私はいよいよ逃げ出した。
階段を駆け下り、驚いた顔をしている周囲の人たちを押しのけて叫びながら走り続ける。
体力の限界が来て私が立ち止ったときには、そこは人気の少ない中庭だった。
はあ、と息をつき、きょろきょろと辺りを見回して「奴」がいないか確かめる。
そこにあるのは緑が生い茂った木と、夕焼けに染まる校舎、そして雑草と土くらいで、
どこにも「奴」の姿はなかった。
私は深く息を吐き、その場に座り込んだ。
自分から汗の匂いがする。秋とはいえ夏のように気温が高く、汗が額から流れ落ちた。
熱った私の体を、夕方の冷たい風が撫でて行く。
「……はあ」
額の汗をぬぐう。
「おつかれー」
声をかけられ、振り向いた。
――瞬間、心臓が一際大きく跳ねる。
私が叫んだのは、それと同時だった。
「うわ、すっげ―声。そんなに叫んだら喉壊すんじゃねえ?」
「な、なん、で……」
坂木くんは夕日を被った中庭を背に、悪戯っぽい笑みを浮かべて「浮いて」いた。
私は顔面を蒼白にして彼を見つめる。彼に影はなく、やはりここでも彼は透けていた。
「せっかく話をしようと思ったのにさ、お前が逃げるから」
「そりゃあ逃げるよ!」
唇を尖らせ、拗ねる坂木くんに私は叫ぶ。
坂木くんの言うとおり声が枯れ、奇妙な音が出た。私は咳をする。
「まあまあ落ち着けって。な? 俺は別にお前を呪い殺そうとか、そういうこと思ってるわけじゃないんだし」
仲良くやろうぜ、と坂木くんは口角を上げた。
「俺、お前に頼みごとがあるんだよ。訊いてくれねえかな」
な? と坂木くんは首を傾けた。私は顔を青くしたまま、
「……その頼みを訊かないと、私はとりつかれて殺される、とかそういう……」
「誰がそんなことするか」
坂木くんが呆れる。私はなぜか、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
坂木くんが、体が他よりちょっと透き通っているだけの、普通の人間に見えてきたのかもしれない。
「あのな、お前が俺をどう思っているかは知らねえけど、俺は誰かを不幸にしたりだとか、そういうことはできないんだよ」
「……本当に?」
「本当に決まっているだろ」
私はそのときにはもう、落ち着きを完全に取り戻していた。
目の前の、ごく普通の男子高校生を見つめる。
少し透き通って、少し浮いてるだけ。そう思いこむことにした。
「で、だ。頼みごとがあるんだ、訊いてくれ」
坂木くんはそういって、一歩私に近付いた。
私は反射的に、一歩離れる。
坂木くんは眉根をひそめ、再度私に一歩近づいた。私はまた一歩離れる。
「……何してるんだお前」
「え、いやなんか……なんとなく」
私の答えを聞いて、坂木くんは逃げるなよ、と言った。
私はその言葉を無視して聞いて逆に逃げ出す。あっ、という素っ頓狂な声が聞こえたのは、多分気のせいではない。
「待てって!」
慌てた声が後ろから聞こえる。私はここぞとばかりに逃げ出していた。
中庭を抜け、グラウンドに出ようとしたところで、誰かとぶつかる。きゃあという悲鳴が聞こえた。
私と相手は尻もちをつき、したたかに腰を打ちつける。
「いったあ……」
呟きながら、相手の顔を見る。太い三つ編みに赤縁メガネの彼女は、私を見るなり――
「あっ! やっと見つけた」
と、こちらに指をつきつけて叫んだ。
「あ、ヨリ」
私は彼女――ヨリの名を呼ぶ。あ、ヨリ、じゃないわよ! とヨリは叫び、腰を上げた。
「どうしたの、部活は?」
「あんたがあんなふうにいきなり叫んで出て行ったもんだから、もう皆部活どころじゃないわよ!」
ヨリが激昂する。そう言われて、私は改めて自分の行動を思い返した。
けれど、美術室にいたあたりの記憶は、ひどく混乱していたのかまったく思い出せなかった。
私は眉尻を下げ、幾分か申し訳なさそうに首を傾げる。
ヨリが私の頭をぱちんと叩いたのは、至極当たり前の反応だと思う。
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